History of Hiroshima YMCA

1935-1945

 1844年、イギリスのロンドンにおいてジョージ・ウイリアムズと11人の仲間によってYMCAが創立された。それから36年後の1880年、日本で初の東京YMCAが誕生した。創立者の小崎弘道は、“Young Men”を訳すのに苦心した結果、『青年』という言葉を造り出した。1890年にはこの広島においても,最初の基督教青年会が誕生したが、日清戦争の最中、記録の中から消えていった。

 蒔かれた種は半世紀を経て、ようやくその芽を出すのである。軍靴の足音が高くなった1932年、青年たちの中から再び広島YMCA設立の声が起こりはじめ、1935年11月には広島YMCAの精神的設立と言われた広島YMCA設立相談会が行われた。戦時体制の進行にともない青年が徴兵で少なくなる中、「礎石だけは残しておこう」との思いが、1938年10月25日の広島YMCA発会式となったのである。

1935

1935年11月25日 広島金座街・大隈洋行の3階で行われた、YMCA設立相談会。YMCA設立をめざす学生や教会員が集まり、意見交換を行い、YMCAの設立を誓い合った。精神的設立と呼ばれた。

1936

1936年9月24日 同年7月に京阪ワイズメンズクラブのメンバーから贈られたYMCA旗を持ち、会員と子ども達を連れ20名で呉婆々宇山登山を行った。この経験がその後の活動の大きな自信となった。

1936

1936年9月24日 同年7月に京阪ワイズメンズクラブのメンバーから贈られたYMCA旗を持ち、会員と子ども達を連れ20名で呉婆々宇山登山を行った。この経験がその後の活動の大きな自信となった。


1938

発会式にて行われた斎藤惣一同盟総主事講演会「基督教青年会の使命」 発会式では、下記のローマ信徒への手紙12章が拝読された。戦争に向かう日本を憂う創設者たちの複雑な思いがうかがわれる。

 

【礎(いしずえ)】

希望を持って喜び、苦難を堪え忍び、たゆまず祈りなさい。

あなたがたを迫害する者のために 祝福を祈りなさい。

祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

できれば、せめてあなた方は、

すべての人と平和に暮らしなさい。

 

                       ローマ信徒への手紙12章14-18節

1945/8/6

原爆投下当日を克明に綴ったYMCA委員長 中尾一真の手記をご紹介。

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1945-1955

 廃墟となった広島の地において、YMCAの復興は早かった。1945年11月、3名の青年と3名のOBが広島YMCAの再建を決意し、講演会やクリスマス会など多彩なプログラムをスタートした。そして、1946年8月6日、「広島の復興はYMCAから」を合言葉に、広島YMCA委員長の中尾一真は生き残った会員やキリスト教徒を代表して、NHK広島放送局のマイクを通じて、全国に向けて平和宣言を行った。創立以来、会員達が常に願ってきたのは活動拠点の確保であった。1946年11月27日 八丁堀北側の国有地「偕行社跡」の借用に成功し、今日の広島YMCAの基礎ができたのであった。

 

1946

原爆で壊滅した広島YMCAであったが、1946年4月永井三郎の来広により、その再建はより具体的な方向へと進んでいった。謄写印刷や英語講習会で資金を得、講演会やクリスマスなどのプログラムを展開していった。

1946

焼け野原の広島ではあったが、学童1400名を招待した市民クリスマスなど活動は活発となった。終戦から1年の暮れ、会員はバラック建ての本通で、クリスマスキャロルを行い、暗く傷ついた市民の心に希望を灯した。

1949

1949年4月17日 被爆者の体験を「天よりの大 いなる声」として出版。賀川豊彦は「ヨハネの黙示録11章12~14節」からこの本を命名した。平和宣言とこの本の出版は、YMCAが平和の問題に取り組む基盤となった。


【平和宣言】

一、我らは、戦争の惨禍の防止に対し、力弱くして、なすなかりし過去を衷心より懺悔す。

一、我らは、神は父、人はその子、お互いに兄弟也とのキリスト教の教えを再確認し、死に至るまで

  忠誠なる信仰の復興を全身全霊を持って祈願す。

一、我らは、衣食住すべて乏しく、悩み多き世の中に処し、ただ己の如く隣人を愛する兄弟愛の実践の

  み、この苦境を突破しうる、唯一の道なることを信じ、この忠実なる実行に神の助けを切望す。

一、我らは、キリストの教えに対する信仰と、その実践こそ個人を救い、郷土を興し、祖国を生かし、

  世界に平和を齎す無比の一路なることを確信し、常に言葉と行いをもって、その福音の宣伝に

  努力す。  

全日本並びに、全世界の同信の友よ、願わくば我らのために祈りたまえ。

(1946年8月6日、冒頭部は割愛)

1949

会館建設に尽力した人物としてYMCA同盟名誉主事のダーキンの存在は忘れてはならない。当初GHQの仕事で被爆2ヶ月で来日したが、広島の惨状を目にし、復興のため土地借用に大きく貢献した。

 

1949

1949年オーストラリア軍YMCAより、コンセットハット(蒲ぼこ型兵舎)2棟の寄贈があり、それを拠点として、YMCA活動と共に会館建設のための準備が進められた。

1950

1950年 宮島山白浦でキャンプを開始。1954年には山白浦にキャンプサイトを整備。1950~1960年代は山白浦を中心とした教育キャンプを展開した。


1950

1950年11月 学生YMCA中国部会の記念写真。指導の一環で広島(宮島)を訪れたディーン・リーパー氏(前列中央)背景には1950年9月のギニア台風により破損した宮島の大鳥居の修復工事が映っている。

1951

1951年12月9日 学生YMCA主催の降誕節(現在のアドベント)の礼拝に集まった学生達。戦後6年を迎え、多くの会員や学生が夢や希望に満ち、広島YMCAに集った。翌年には新しい会館が与えられることとなる。

1952

1950年2月、ヴォーリス設計事務所から設計プランが寄せられたことで会館建設が具体化世界青年復興資金から3万ドルが寄せられ、さまぎまな困難があったが、1952年1月の起工式を経てついに7月落成となった


1955-1965

戦後、間もなく会員宅を拠点としてYMCA活動が再開され、子供会、引揚者援護相談所、幼稚園など幅広い活動が展開された。その後、子供会活動は青年会員河本一郎らが引き継ぎ、旭子供会を皮切りに16組の子供会が広島市内一円に広まった。この活動が基となり1956年、広島YMCAが中心になり「広島県青少年団体連絡協議会」が結成され、初代会長に総主事の奈良常五郎が就任した。子供会育成にYMCAがリーダーシップを発揮し、地域に貢献した。後の市民クリスマスやハイY活動として発展し、河本一郎は、原爆の子の像建立運動や原爆ドーム保存運動を指導していくようになる。

 

1955

1955年11月10日~13日、佐々木禎子さんの死をきっかけに原爆の子の像建立の募金のために全国中学校長大会にてビラ配りを行なった。YMCAのメンバーの子ども達と一緒に活動した河本一郎(広島YMCA会員)の顔も見える/後列左

1958

1958年5月5日 原爆の子の像が完成し、原爆の子の像建立後、活動を続けていた子ども達は、「折鶴おりづるの会」を結成、YMCAに事務局が置かれた。

1960

 

1960年8月6日折鶴の会の子ども達は、原爆症で亡くなった楮山ヒロ子さんの日記を読み、その気持ちに寄り添う形で、原爆の子の像の前でいち早く原爆ドームの保存を訴え、募金活動を行った。